ハッキャリの山々が記憶する刃:アッシリア人ジェノサイドの地理学
第一次世界大戦中、オスマン帝国はハッキャリ山脈を故郷とするアッシリア人を組織的に殺害・追放した。これは「セイフォ(剣)」として知られるジェノサイドであり、地図から一つの民族を消し去ろうとする空間的暴力であった。

要点
- アッシリア人ジェノサイド(セイフォ)は、第一次世界大戦中にオスマン帝国がキリスト教徒のアッシリア人に対して行った組織的な絶滅政策である。
- ジェノサイドの中心地の一つは、オスマン帝国南東部の山岳地帯ハッキャリであり、そこは半自治的なアッシリア人部族の故郷であった。
- このジェノサイドは、直接的な虐殺、強制的な死の行進、飢餓、病気によって、推定25万から30万人のアッシリア人の命を奪った。
- 現代のトルコ共和国は、このジェノサイドの歴史的実在性を公式に否定しており、アッシリア人の文化的・地理的遺産の組織的な抹消を続けている。
- ジェノサイドは物理的な破壊だけでなく、地名のトルコ化や地図からの抹消を通じて、アッシリア人の故郷からの空間的な消去を目的としていた。
要約:第一次世界大戦中、オスマン帝国は南東アナトリアの山岳地帯ハッキャリを故郷としていたキリスト教徒のアッシリア人に対し、組織的な絶滅作戦を実行した。「セイフォ」(剣)として知られるこのジェノサイドは、虐殺と強制移住によって数十万人の命を奪い、一つの民族をその歴史的故郷の地図から暴力的に消し去った。この記事は、ハッキャリという場所を起点に、ジェノサイドの地理的・空間的側面を明らかにする。
主な事実
- 名称:セイフォ(Seyfo)またはセーポ(Sayfo)。シリア語(アラム語の一方言)で「剣」を意味する。
- 時期:主に1915年から1918年。第一次世界大戦と同時期に発生。
- 場所:オスマン帝国南東部(現在のトルコ南東部)、特にハッキャリ、トゥル・アブディン、ディヤルベクル県、および隣接するペルシャ(現在のイラン)のウルミア地方。
- 実行者:タラート、エンヴェル、ジェマル・パシャ率いる「統一と進歩委員会」(CUP)政権下のオスマン帝国政府、その特別組織(テシュキラート・マフスーサ)、および一部の協力的なクルド人部族。
- 犠牲者:推定死者数は25万~30万人。戦前の人口の半数以上に相当する。
- 方法:男性の即時処刑、女性・子供・高齢者の強制移住(死の行進)、飢餓、計画的な病気の蔓延、強制改宗、大規模な略奪と財産没収。
その場所
ハッキャリ。その名は、険しい山々、深い谷、そして外界から隔絶された部族の砦を想起させる。第一次世界大戦前夜、この地はオスマン帝国とペルシャ帝国の間に横たわる緩衝地帯であり、現代の国家が課す硬直した国境線がまだ完全には引かれていない領域だった。ここはアッシリア人、特にネストリウス派キリスト教を信仰する半独立の部族民にとって、数世紀にわたる故郷であった。彼らは自らを「アシュレト」(ashiret)と呼び、オスマン帝国の直接支配をほとんど受けず、コチャニス(Qodshanis)に座する世襲の総主教(マル・シムン)の精神的・世俗的指導の下で自治を享受していた。

彼らの世界は、地理によって規定されていた。ティヤリ、ジールー、バズ、トフマといった部族は、それぞれが特定の谷や山腹を支配し、農業、牧畜、そして時には近隣のクルド人部族との小競り合いによって生計を立てていた。彼らの村々は、石と泥で築かれ、山肌に張り付くように点在していた。教会はコミュニティの中心であり、古代アラム語から派生したシリア語での典礼は、彼らが古代メソポタミアの民の直系の子孫であるという意識を育んだ。この山岳地帯は、彼らにとって要塞であり、聖域であり、そして世界そのものであった。しかし、この地理的孤立は、20世紀初頭の帝国主義とナショナリズムの嵐の中で、彼らを致命的な脆弱さに晒すことにもなった。
歴史の地層
1914年、オスマン帝国が中央同盟国側として第一次世界大戦に参戦すると、帝国内のキリスト教徒少数派に向けられる眼差しは、猜疑から敵意へと急速に変化した。エンヴェル・パシャ、タラート・パシャ、ジェマル・パシャの三頭政治に率いられた「統一と進歩委員会」(CUP)は、汎トルコ主義的な国家理念を掲げ、アナトリアから非トルコ・非ムスリム要素を「浄化」する機会と捉えた。1914年11月に発令された「ジハード」(聖戦)の布告は、キリスト教徒に対する暴力を宗教的に正当化する口実を与えた。
アッシリア人に対するジェノサイドは、一つの計画の下で一斉に開始されたわけではない。それは地域ごとに異なる様相を呈しながら、しかし共通の絶滅という目的に向かって収斂していく一連の暴力であった。
- 動員と武装解除:まず、オスマン軍に徴兵されていたアッシリア人兵士たちが武装解除され、労働大隊に送られた。そこで彼らは過酷な労働の末に殺害されるか、衰弱死させられた。これは、コミュニティから抵抗能力のある若い男性を組織的に排除する第一段階であった。
- 指導者の殺害:次に、聖職者、村長、知識人といったコミュニティの指導者たちが標的とされた。彼らを逮捕・処刑することで、組織的な抵抗を未然に防ぎ、コミュニティを混乱と恐怖に陥れた。
- 地域ごとの虐殺:ディヤルベクル県では、知事メフメト・レシット(「ディヤルベクルの屠殺者」として知られる)の指揮下、最も残忍な虐殺が実行された。アッシリア人(およびアルメニア人)の男性は集められて処刑され、その遺体はチグリス川に投棄された。女性と子供は南の砂漠への死の行進に追いやられ、その多くが途中で殺害されるか、飢えと渇きで命を落とした。トゥル・アブディン地方(「神のしもべたちの山」の意)では、数世紀にわたるシリア正教の中心地であった数十の村と修道院が破壊され、住民が虐殺された。
ハッキャリの山岳部族民は、当初は武装して抵抗した。彼らは熟練した戦士であり、その地形を知り尽くしていた。しかし、オスマン正規軍と、彼らに協力した一部のクルド人部族による数的に優勢な攻撃の前に、彼らの抵抗は徐々に打ち砕かれていった。

「トルコ人とクルド人は、あらゆる村に侵入した。彼らは家々を焼き払い、教会を破壊し、古代の聖典を略奪した。彼らは子供たちを母親の腕から引き離し、目の前で殺害した。多くの若い女性や少女は、辱めを受ける前に崖から身を投げて死を選んだ。」
— Joseph Naayem, Shall This Nation Die? (1921)
追い詰められたハッキャリのアッシリア人たちは、1915年後半、マル・シムン・ベンヤミン21世に率いられ、山々を越えて隣国ペルシャのウルミア地方へと集団で脱出することを決意した。それは民族の存亡をかけた悲劇的な大移動の始まりだった。
| 地域 | 1915年以前の推定人口 | 主なジェノサイドの展開 | 結果 |
|---|---|---|---|
| ハッキャリ | ~70,000人 | オスマン軍とクルド部族による攻撃、集団脱出 | 住民のほぼ全員が殺害されるか、追放された。 |
| トゥル・アブディン | ~80,000人 | 村々の包囲、組織的大量虐殺、強制改宗 | 人口の約90%が殺害または追放された。 |
| ディヤルベクル県 | ~60,000人 | レシット知事による組織的絶滅作戦 | 人口の大部分が殺害された。「屠殺場」県。 |
| ウルミア(ペルシャ) | ~40,000人 | オスマン軍の侵攻と撤退に伴う虐殺と飢饉 | 人口の半数以上が死亡。 |
現代の地を歩く
ハッキャリからの逃避行は、それ自体が死の行進であった。雪深い山々を越え、ペルシャ領ウルミアにたどり着いた数万人のアッシリア人避難民を待っていたのは、安住の地ではなかった。オスマン軍の侵攻はペルシャ領にも及び、ウルミア周辺でも虐殺と飢餓が吹き荒れた。ロシア革命後、彼らを守っていたロシア軍が撤退すると、アッシリア人たちは再び孤立無援となった。1918年、彼らはイギリス軍の保護を求めて、イラクのバクーバへと向かう、さらなる過酷な南下を開始した。この逃避行の過程で、数万人が病気、飢餓、そして追撃によって命を落とした。

バクーバの難民キャンプでの生活は悲惨を極めた。戦後、彼らの故郷への帰還の望みは、1923年のローザンヌ条約によって完全に打ち砕かれる。この条約は、新生トルコ共和国の国境を画定したが、アルメニア人やアッシリア人の権利や故郷への帰還については一切言及しなかった。ジェノサイドの実行者たちは罰せられることなく、その暴力によって得られた領土と財産は、新しい国民国家の基盤の一部となったのである。
今日、かつてアッシリア人の故郷であったハッキャリやトゥル・アブディンを歩くことは、不在の気配を感じる旅である。村々の多くは廃墟と化し、あるいはクルド人の住民に取って代わられた。かつて村の中心であった教会は、意図的に破壊されたか、家畜小屋や倉庫として使われている。地名はトルコ語に変えられ、アッシリア人がこの地に存在したという記憶そのものが、公的な記録から抹消されている。
地図が隠すもの
地図は、客観的な地理情報の記録ではない。それは権力によって描かれ、特定の現実を提示し、別の現実を隠蔽するための道具である。アッシリア人ジェノサイドの文脈において、地図は暴力の舞台であり、また暴力の痕跡を消し去るための手段でもあった。
冒頭に掲げた概略図は、1915年以前に存在した「アッシリア人の世界」を描こうとする試みである。そこには、ハッキャリの山々に根を下ろし、トゥル・アブディンの台地で祈りを捧げ、ウルミア湖のほとりで暮らす人々の生活空間があった。それは国境線よりも、谷、川、そして信仰のネットワークによって結ばれた世界だった。

一方、ジェノサイドの後にトルコ共和国が作成した公式地図は、全く異なる現実を描き出す。そこでは、アッシリア人の村々は、その名前がトルコ語に置き換えられるか、あるいは地図上から完全に消え去っている。例えば、シリア語で「井戸の村」を意味する「アイン・ワルド」は「ギュルギョゼ」に、アッシリア人の部族名に由来する「ジールー」は単なる地理的名称として残るか、それすらも消された。この地図上の暴力は、物理的な破壊と追放を完了させるための、文化的な最終解決であった。
ジェノサイドの本質は、単に人々を殺すことだけではない。それは、一つの民族がその土地との間に築いてきた歴史的、文化的、精神的な結びつきを断ち切ることにある。それは空間の浄化であり、記憶の抹消である。セイフォは、人々を殺害し、その身体を大地から引き剥がすだけでなく、彼らが存在したという証拠そのものを地図から消し去ろうとした。
文化の破壊
セイフォ(剣)
死の行進
条約の裏切り
故郷の喪失
ハッキャリの山々は、今も静かにそびえ立っている。その岩肌や谷間は、かつてそこで繰り広げられた生の営みと、その暴力的な終焉の無言の証人である。地図が隠し、国家が否定する歴史を語り継ぐことは、失われた世界への追悼であり、未来に向けた正義の要求である。沈黙させられた者たちのために、私たちは地図を書き換え、その空白を記憶で埋めなければならない。なぜなら、ジェノサイドの最後の勝利は、世界がそれを忘れた時に訪れるからだ。
出典と参考文献
- Gaunt, David. The Thirty-Year Genocide: Turkey's Destruction of Its Christian Minorities, 1894–1924. Berghahn Books, 2017.
- Travis, Hannibal. "'The Assyrian Genocide': A Tale of Oblivion and Denial." The Forgotten Genocides: Oblivion, Denial, and Memory, edited by René Lemarchand, University of Pennsylvania Press, 2011, pp. 123–36. JSTOR.
- Yacoub, Joseph. Year of the Sword: The Assyrian Christian Genocide, A History. Translated by James Ferguson, Hurst & Company, 2016.
- Ben-Eli, A. (2019). "Songs from the Past, Present and Future: The Survival of the Assyrian Nation." Journal of Assyrian Academic Studies, 20(2), 23-42.
- O'Shea, John. Alia, A Roman: The Story of a People. World Council of Arameans (Syriacs), 2008.
- Al Jazeera. "Remembering the Assyrian Genocide." 23 Apr 2015. Link
よくある質問
- アッシリア人ジェノサイド(セイフォ)とは何ですか?
- 「セイフォ」(シリア語で「剣」)としても知られるアッシリア人ジェノサイドは、第一次世界大戦中の1915年から1918年にかけて、オスマン帝国が国内のアッシリア人キリスト教徒に対して行った組織的な大量虐殺と強制移住です。これはアルメニア人やギリシャ人へのジェノサイドと並行して行われました。
- 誰がアッシリア人ジェノサイドの責任を負っていますか?
- 主な責任は、タラート・パシャ、エンヴェル・パシャ、ジェマル・パシャが率いるオスマン帝国の中央政府「統一と進歩委員会」(CUP)にあります。彼らの汎トルコ主義イデオロギーに基づき、帝国を「浄化」する政策の一環として実行されました。オスマン帝国の特別組織や、一部のクルド人部族も実行部隊として加担しました。
- セイフォによる死者数はどのくらいですか?
- 正確な死者数を確定することは困難ですが、歴史家による推定では、戦前の約60万人のアッシリア人人口のうち、25万人から30万人が殺害されたとされています。一部の研究では、より高い数字が示されることもあり、人口の半数以上が失われたと考えられています。
- なぜトルコはアッシリア人ジェノサイドを否定するのですか?
- トルコ共和国は、建国の物語を汚す可能性のあるオスマン帝国の犯罪を認めることに消極的です。ジェノサイドを認めることは、国家の威信を損ない、賠償請求や領土問題につながる可能性があると懸念しています。そのため、これらの出来事を「戦時中の悲劇」や「内戦」として矮小化しようとします。
- アッシリア人ジェノサイドの現代への影響は何ですか?
- ジェノサイドは、アッシリア人を彼らの数千年にわたる故郷から根絶やしにしました。生き残った人々はディアスポラとして世界中に離散し、故郷のコミュニティは壊滅しました。今日、トルコ南東部に残るアッシリア人はごくわずかで、彼らの教会や村は破壊されるか放置され、文化遺産は抹消の危機に瀕しています。